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創作から興味ある事柄まで気まぐれに綴ります
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  <6.古の衆>
 
 
 古辺玲四郎と新垣真人、そして盤場警部の部下である櫛川(くしかわ)刑事の三人は、5月14日の午前10時前に新幹線で仙台市へ到着した。
 その日は曇り空だったせいか気温が低く、少し厚着しても問題ないくらいである。
 櫛川刑事は地元の警察署へ応援の要請に向かったので、残った二人は駅に程近い喫茶店で連絡を待つ事になった。
「いよいよ正念場だよ、新垣くん」
 自身は至って落ち着いた様子で、古辺が助手に覚悟を促した。
「櫛川さんから聞いた通り、桑島夫妻を入れて六人もの人間を殺めて来た相手と対決しようと言うのだ。どんなに用心しても危険はさほど薄まらない。我々は上着の下に刃物と銃弾を防ぐ特製ベストを忍ばせているが、何せ向こうは傭兵経験のある手練れだからね」
 それを聞いた新垣は、体の芯が震えるのを止められなかった。
 自分を亡き者にすべくアパートへ乗り込んできた賊と、今度は真っ向から対決しようと言うのだ。
 櫛川刑事や地元の警察官たちの補佐とはいえ、ゲリラ戦に長けた東馬はどんな手を使ってくるか分からない。
 彼の気分は沈みがちだった。
「今日の作戦を再確認しておこう。櫛川さんと地元警察の連合チームに合流したら、今度は二手に分かれて行動する事になる。一つのチームは市内にある“もりのさと児童擁護施設”に向かい、そこで長年に渡り代表を務める嘉犀十吉(かさい・じゅうきち)に任意同行を求める。僕はリストを持っていないが、同施設に勤める者も何人か引っ張られるだろう。同じ頃、僕達を含めたもう一つのチームは、東馬が潜伏していると情報のあったホテルへ乗り込む。こちらには、既に見張りを付けてあるらしい。そうだ、今のうちに嘉犀十吉について君に話しておこうか。この嘉犀という老人こそ、表向きは社会奉仕の一端を担う立場でありながら、実は怪しげな集団の長として暗躍する人物なのだ。嘉犀の家は代々からの地主として一目置かれる存在だったのだが、彼が複数のビル経営に失敗したせいで殆どの土地を手放してしまい、昔の勢いが嘘の様な経済状態だという」
「それは、どういう集団なんですか?」
 思わず助手が問った。
 すると古辺は、テーブルに置いてあるナプキンを一枚抜き取り、自前の万年筆で何やら書き綴った。
 ナプキンには『千験』と書いてある。
「せんけん…?」
「正しくは“せんげん”と呼ぶ。後ろの字は、ゲンを担ぐに使われるあのゲンで、縁起や祈祷の効果を指す。『千験』とは、仙台地方に古くからあるとされる密教の一派を指す名前だそうだ。異国伝来の面をかぶり妖しげな加持祈祷を行ったが、それは呪術により狙いを定めた人物に災いをもたらす為だという。世に乱れを起こす者を取り除いて、社会をあるべき姿に導くのが名目らしいがね。後年はより直接的な手段に出る様になり、伊達家によって『千験』は根絶やしにされたと文献は締めくくっている。ただ、長を含む数名が他藩へ逃れた噂も残っていて、後年かの地へ舞い戻り、権力者達を震え上がらせたという逸話もあるんだそうだ。僕が知り合いからこの話を聞いたのは随分前だが、頭のどこかに記憶していたのは幸いだったよ。盤場警部から東馬が仙台に関わりが深いと知り、ふと閃いたんだ」
 新垣は先程までの不安も忘れて聞き入っており、説明が途切れた所へ質問を投げ掛けずにはいられなかった。
「嘉犀十吉や東馬が、その『千験』と関係あるのは間違いないんですか?そんな伝承に近い話と、現代の犯罪事件に繋がりがあるとは信じられないんですが…」
「ところがね、新垣くん。地元警察の調べで、僕の推測がまんざら見当違いでもないと分かったのさ。『千験』は菱形の中に釘を表したマークを印章代わりにしていたのだが、かつて嘉犀が経営していたビル管理会社の社章が、それに酷似していると判明したのだ。恐らく彼は、『千験』を束ねる立場にあった者の子孫か、少なくともそれに近い立場の血筋なんだろう。東馬は東南アジアから帰国すると、まず自分の育った児童擁護施設を訪ねた。以前面倒を見た子が傭兵経験を積んで来たと知った嘉犀は、組織の殺し屋としてスカウトしたんだよ。その証拠に、東馬が再度仙台を離れる直前、政治団体の幹部が首の骨を折って変死する事件が起きている。この幹部は地元で相当顔の利く影の大物で、一般には殆ど知られていない人物だ。彼は嘉犀が事業に失敗する遠因を作っていて、それに対する私怨が、長らく断たれていた『千験』を復活させたのだろうと僕は見ている。東馬が滞在する先では、こう言った影の実力者が四人も変死したり殺害されたりしていてね。いずれも事件は迷宮入りしたままだ。彼らは亡き者にされる理由を持っていたが、唯一桑島夫妻だけがその例外だった」
「そう、それですよ。結局、東馬が二人を殺した動機は不明のままなんですか?」
 はたして、古辺はその回答も用意していた。
「警部が夫妻の自宅で見つけた日記に、大変興味深い記述があってね。今年の正月に仙台を訪れた際、人里離れた小さな神社に奇妙な面が飾られているのを見たと書いてあるんだ。異国のデザインを日本風に解釈して作った様な、どこか異様さを感じさせる面だったそうだよ。一方、嘉犀の一族は近隣に幾つかの神社を建立している。その中の一つを桑島夫妻が訪れ、『千験』の儀式に使う面を見たのではないだろうか」
「でも、たかが面を見たくらいで殺そうとはしないでしょう。他に何か理由があるのではないでしょうか」
「その神社は、嘉犀が持つ山林にひっそりと立てられていて、一般人に知られないよう、途中でわざと道を遮断する細工まで施してあるそうだよ。夫妻が何故そこを知ったのかは不明だが、神社仏閣の参拝が趣味というだけに、誰かに噂でも聞いたのかも知れぬ。実はねぇ、新垣くん。文献によると、その面は加持祈祷の際だけでなく、これと決めた人物を葬る場合にも被られたと記述があるのだ。儀式に用いるだけの祭具では無いというのを、我々は考慮しなくてはならない」
 新垣が空恐ろしさに背筋を凍らせている所へ、喫茶店のウェイトレスがコーヒーとココアを運んで来た。
 彼女は狭いテーブルへそれを置いて帰るかと思いきや、古辺に向かって伝言を言付かっていると告げた。
「先程、お店にアズマという方から電話が掛かって参りまして、この席においでのお客様に霧霜(きりしも)神社へ来てくれとの伝言がございました。タクシーで名前を言えば連れて行ってくれるから、そこで落ち合おうとの事です。心当たりがおありでしょうか」
 アズマという名前を聞いて、新垣は飛び上がらんばかりに驚いた。
 流石に古辺は取り乱さなかったが、かなり緊張した面持ちに変わっている。
「ああ、そうですか。有難う」
 古辺が礼を言うと、ウェイトレスは会釈して立ち去った。
「こ、古辺さん。ヤツは密かにホテルを抜け出し、僕らの居所を掴んでいるんですよ!」
 狼狽する新垣に、古辺はニヤリと口元を歪ませた。
「何も東馬だけの仕業とは限らない。『千験』の衆が、彼と連動して動いている可能性もある。新垣くん、君はすぐ櫛川さんに電話してくれないか。相手が自分達に捜査の手が及ぶ事を既に知っているので、こちらとは合流せずに、計画通り二手に分かれて突入する様に言ってくれ。僕らは、霧霜神社とやらに行くとしよう」


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  <5.見えぬ動機>
 
 
 秋田透の遺体が発見されたのは、秋田が住んでいたアパートの近くにある雑木林の中であった。
 死因は絞殺で、直径1センチほどのロープによって後ろから首を絞められたらしい。
 かなりもがいた様子で、ここでも東馬の残虐性が滲み出ている様だった。
 新聞店の社長が言った通り、秋田はギャンブルの負けが込んだせいで三百万以上の借金があったらしい。
 返済に困って手当たり次第に金の無心をしていたという事だから、報酬を餌に犯罪の手助けを頼まれたとしても容易に引き受けたと考えられる。
 死体発見の翌日、古辺犯罪研究所を訪れた盤場警部は、現状を把握する為に古辺らと意見交換をしている最中であった。
「秋田に関しては、借金があるという以外に変わった所は無いんだがね」
 警部は手元の資料を覗き込みながら言った。
 彼は五十代に入ったばかりだが、警察官としては少々太っていたし、老眼も同世代より幾分進んでいる様だ。
「東馬の方は注目すべき点が多い。子供の頃に両親が離婚して母親に引き取られたが、まともに育てて貰えず結果的に児童養護施設へ入っている。施設を出た後は職を転々としていたが、二十歳の時に東南アジアに渡り、何と資産家の傭兵として二年間働いていたというのだ。東馬はここで、刃物の扱いや格闘術を習得したんだろう」
「人を殺す実践的な技術と、それを現実に行う冷酷な精神も、ですね」
 古辺が付け加えた。
「そういう事だねぇ。その後日本へ帰国した彼は、当初は故郷である仙台市でアルバイトをしていたが、青森県の田舎町や横浜市など一つ所に長く留まる生活をしなかった様だ。そして去年の6月、この○県H市の新聞店に勤め始めた。今日は5月10日だから、ここへ来てもうすぐ一年になる計算だね」
 警部の資料を背中越しに見ていた古辺は、やがて自分の机に戻って語り始めた。
「帰国後の東馬の足取りは中々興味深いですね。同じ場所に一ヶ月と居ないのもそうですが、次の行先を全然違う場所にしている。何回かなら分かりますが、全ての引っ越しでそうするのは珍しい。まるで、元居た地域から出来るだけ離れようとしているみたいじゃありませんか」
 古辺がニヤリと笑ったのを見て、盤場警部はハッとせずには居られなかった。
「何が言いたいんだね、古辺君」
 そう尋ねる声は、幾分震えている。
 犯罪研究家を自称する男は、質問に対して驚くべき回答を放った。
「これは僕の思い付きに過ぎないという事を断っておきますがね。東馬は、この国でも傭兵ならぬ殺し屋として暮らしているのではないかと思うのですよ」
「殺し屋だって!」
 我知らず警部が叫んだのも無理はない。
 地方の警察官として数十年勤務した彼にあって、プロの殺し屋に出会った経験など一度も無かったのだ。
「東馬が過去に住んでいた地域で、彼の住んでいる期間内に、迷宮入りした殺人事件や傷害事件が起きていないか調査の必要があるでしょうね。東馬が新聞店へ出した履歴書がある筈なので、その写真を拡大すれば役立つと思います。名前は偽名の可能性が高いですが。もし彼に仕事を依頼した人間が居るなら、こっちも逮捕出来るチャンスが生まれるかも知れませんよ」
「うむ。すぐに調べてみよう」
 盤場警部の表情が俄かに熱を帯びて来る。
「それから、出崎町の被害者である老夫婦の事についてなんですがね。金目の物や値打ち品は何も盗まれておらず、人から恨みを買う様な人達では無かったという事でした。つまり物取りでも怨恨でも無いとの見解ですが、その後何か新しい事実が出ましたか?」
「いや、そっちに関しては幾ら調べても何も出て来ないんだ。まして、東馬との接点など皆無でね。被害者の桑島重郎・佐貴子夫妻は近所や知人からの評判も良く、夫が銀行を定年になってからは、二人共通の趣味である神社仏閣のお参りに熱中していたそうだよ。二人には子供が居ないので、余計気楽だったんだろう。蓄えは豊富だし夫婦揃って厚生年金を受給しているから、我々からすると羨ましい限りの身分さ」
 古辺はしかし、最後の愚痴に対する反応は薄かった。
 その一つ前のキーワードに、心を奪われていたのである。
「ふふふ…。警部、ひょっとすると犯人と被害者を結ぶ接点が見付かるかも知れませんよ。ついては、桑島夫妻が訪れたであろう神社仏閣も調べておいて下さい。東馬が幼少の頃に居た、仙台市の児童養護施設に関してもお願いします」
 だが、相手は当惑の色を隠せなかった。
「勿論、それは引き受けるがね。もしや東馬が、そこを頼って逃亡した可能性があると?」
「東馬が東南アジアから帰って、最初に身を寄せたのが仙台でした。そこから全国を点々とするのですが、ヤツが殺し屋だとするなら、まず仙台にそのきっかけがあったと考えるべきでは無いでしょうか。ならず者と徒党を組んでいない人間に、殺人者として生きる道を与える何かが」



  <4.古辺の推理(後編)>
 
 
 この事実に、新垣は開いた口が塞がらない状態だった。
 いつもここへ配達して来る人物が怪しいのかと予想していた彼は、新たな容疑者が現れた事ですっかり動揺してしまっているのだ。
「で、では昨日朝刊を届けに来た青年が怪しいという訳ですか」
「それを確かめる為にも、一刻も早く新聞店へ聞き込みする必要があると考えたよ。ただ、例の青年が居ない時にやらなければ都合が悪いので、僕は脚に物を言わせて彼の後を追う事にした。オートバイで無かったのが幸いした格好だが、これも実は理由がある。あの時刻は配達時間外であり、オートバイは誰も使っていなかった筈だ。それなのに自転車で数キロの道のりを来たのは、エンジン音を聞かれて、新聞受けの中を拭き取る作業を感づかれたくなかったからだと思う。何せここは犯罪研究所と名乗っているのだから、後ろめたい人間にとって警戒すべき存在に違いないからね。新聞受けが以前の物と違う事に気付かなかったのは迂闊だが、暗いうちに配達していると青色が黒味かかって見えるので、紺色になっていても不思議に思わなかったのだろう。奴さんは急ぎもせずタップリと時間を掛けて新聞店へ帰ったが、今思えば我々の始末について考えながらの帰路だったのかも知れんぜ」
 悪戯っぽく笑う古辺だったが、新垣にとっては笑い事ではなかった。
「冗談はよして下さいよ。こっちは実際に狙われたんですから。しかし、どうやって僕のアパートを嗅ぎつけたんでしょう?実は所長が出て行った後、何だが一人で居るのが薄気味悪くなって、すぐにアパートへ帰ったんですよ。あの青年がゆっくり店に向かったのなら、僕を尾行出来るチャンスなど無いはずです。前もって住所を調べていたのなら別ですけど、これはちょっと現実味の無い話ですし」
「その通り。そこが問題なのだが、ひとまず話の続きをさせて貰うとするよ。店に着いた青年は、自転車を置くと中にも入らずそのままどこかへ歩き始めた。ここからは更に慎重な追跡になるので、最新の注意を払ったつもりだ。彼の住むアパートは店から少し離れた下町風の住宅街に建っていて、一階の一番奥に部屋を借りている。15分経っても出て来る気配が無いので、僕は急いで新聞店へ戻って行った。店には配達員は誰も居らず、社長らしきくたびれた中年の男だけだったので、昨日の朝刊が入っていなかった事やその後届けて来た事を話した。ところがね、新垣くん。社長はそんな事など全然知らなかったと言うんだ。また店の名前を印刷した包装付きのタオルは、常に棚に置いてある状態らしい。朝刊の余りは昨日の昼までなら誰でも持って行けたし、全てを隠密に済ますのはそれほど難しくなかったのが判明した。そして、昨日うちへ朝刊を配ったのはいつもの日焼けした方の青年だと分かった」
「ええっ、本当ですか?でも、新聞受けの中を拭き取ったのは…」
「そう、真面目そうな青年の方だ。紛らわしいので、2人の名前を言っておこうか。真面目そうな方が東馬尚喜(あずま・なおき)、日焼けした方が秋田透(あきた・とおる)だ。社長の見るところ二人は格別親しい訳では無く、同じ職場で働いているに過ぎないという。東馬の方は北側区域の配達が担当で、秋田とは別方向の配達に回っている。僕は出来るだけ相手に不審がられない様に注意しながら、様々な事柄を聞き出す事に成功した。そして今回の件に関係する、重大な事実を知ったのだ」
 古辺はそこで一息入れ、再び缶コーヒーで喉を潤した。
 新垣は先が聞きたくてウズウズしている様だが、我慢して待っている。
「実は昨日の朝、朝刊を配ろうという時になって、あるオートバイのエンジンがかからなくなってしまったそうだ。そこで最も近隣を配達する人間が自転車を使い、故障した人間にオートバイ使用を譲る事になった。ただ、近隣を担当する人間が五十代後半だった為、社長命令で東馬に自転車担当を任せたと言うじゃないか。しかも、それだけじゃない。東馬に代わって貰った五十代の配達員は、普段から使い慣れた年式のオートバイが良いと駄々をこね、更に秋田とオートバイを交換させてしまった。という事は、どういう状態になったか分かるね。昨日に限って、秋田は東馬のオートバイで新聞を配達したのだ」
 最後の言葉を聞いて、助手は凍り付いてしまった。
 そうだ、そうなのだ。
 東馬のオートバイのカゴに血が溜まっていたせいで、新聞の一部に血が沁み込んだ。
 一旦新聞を入れた秋田だったが、何かの拍子に血が付いているのに気付き、新聞をまたカゴに戻したのだ。
「問題のオートバイを調べてみると、汚れや傷を防ぐ目的でカゴに被せておくビニールが新品になっていた。ビニールに大きな穴が開いているからと、東馬が自分で取り換えたそうだ。実際はビニールに付いた血を、ただ拭き取っただけでは安心出来なかったのだと思うね。なお、朝刊が届いていないとの苦情は一件も無かったそうだ。予備の朝刊がどれだけ残っていたかは、既に業者が回収済みなのでもう分からない。ただ、大量に減っている様には見えなかったので、密かに持ち出したとしても少量だろうという事だ。余っている朝刊があったのにうちへ入れなかった理由は不明だが、ここは他と離れているから時間が無かったのかも知れない。通常の配達時間を大きく過ぎたので一旦は諦めたが、うちが何も言って来ないので、迷った挙句穴埋めしてみる気になったんだと思う。まぁ、犯罪研究所という名前が無ければ、そのまま放っておいたかもね。ここは一般家庭と違うので、出社が遅いと催促の電話が来なくても不思議ではないのだから。とにかくこれで、東馬と秋田が何らかの協力関係にあるという事が分かった。となると、君を尾行してアパートを突き止めたのは、秋田である可能性が高い。襲撃したのは東馬だろうがね。しかし、謎はまだある。秋田がどこで新聞に血が付いているが分かったのか、取り換えたとしたら何部か、または取り換え無かったのか等だ。だが、これらは当人に聞く以外は推測の域を出ないので深く考えないでおく。そもそも血は誰の物なのか、という謎に比べれば問題の内に入らないからね。ともかく一応は満足の行く情報を得たので、次に僕は盤場(ばんじょう)警部を訪れる事にした。警部とは旧知の仲だし、ある言葉を囁いたので全面的に協力してくれたよ」
「ある言葉?」
 古辺の口調が印象的な響きを持っていたので、思わず新垣がそう漏らした。
「うむ。まず頼んだのは、新聞受けに付着した血痕の分析だね。次に、東馬と秋田の身辺調査だ。過去の素性や経済状態など、細かい部分まで知りたいと言った。そして、最後に決めの言葉を囁いたんだ。この新聞受けの血と、出崎町で起こった殺人事件の被害者の血液型が一致しないか調べて下さい、とね」
「殺人事件!」
 再び新垣が発した声は、叫び声に近い物だった。
「そう、昨日の朝、君が何気なく僕に聞いたあの事件さ。東馬の配達する区域の中に出崎町が含まれていると知った時、別々の場所で起こった出来事が一本の線で繋がっていると閃いたんだ。そして分析の結果、二つの血液が同じであると判明した。更に凶器に使われたナイフも、刺創の形状が二件においてほぼ一致すると分かった。その直後、僕は深夜であるのも構わず、君へ避難せよとの連絡を入れた。既に二人殺害しているとなれば、どんな行動を起こすか分からないからね。秋田が東馬に協力していた理由に関しては、おおよその見当がつく。新聞に付いた血の事を東に尋ね、その時金品の提供でも持ち掛けられたのだろう。新聞店の社長によると、秋田はギャンブル好きでかなりの借金を抱えていたらしく…」
 長らく続いた古辺の推理は、不意にそこで途絶えた。
「どうしました、所長」
 虚空を見つめながら真剣に考え込む古辺を見て、助手が心配そうに声を掛けた。
「そうだ、出崎町の事件では金品類は一切盗まれていない。東馬が秋田の要望を叶える事など出来ないのだ」
 古辺はそう呟くと、テーブルの上に置いてある新垣の携帯電話を掴み取って、手早く番号を打ち始めた。
 彼はもどかしそうに相手が出るのを待っていたが、やがて相手と繋がったらしい。
「ああ、盤場警部ですか。僕です、古辺です。東馬と秋田の行方はまだ分かりませんか?成る程、そうですか。実は警部にお願いがありましてね。例の事件に関する事なんですが、今すぐに二人のアパートの近辺を捜索して欲しいのです。いや、それが急を要する事態でして。僕の考えに間違いが無ければ、どこかに秋田の死体があると思うのですよ」


  <3.古辺の推理(前編)>
 
 
 アパート襲撃事件の翌日、いかにも疲れた表情の新垣が古辺犯罪研究所に出社して来た。
「今日は来なくても良かったんだよ、新垣くん。そうそう、刺された友人の経過はどうだい?重傷では無いとの事だったが…」
「ええ、思ったより傷は浅かった様です。ラグビーで鍛えてますから、寝起きでも自然と防衛本能が働いたのかも知れません。もう一人の友人は、刺しに行った賊を羽交い絞めにしたのですが、腕を捻られそのまま前へ投げ飛ばされてしまったそうです」
「ほう」
 古辺は興味深そうに、顎を手で摩った。
「という事は、犯人は格闘技を習った経験があるかも知れないな。腕に覚えのある若者に後ろから組まれ、それを咄嗟に投げ返すなど付け焼刃には困難な芸当だ。いきなりドアを蹴破り、寝ている人間へ迷わずナイフを振り下ろしているし、相当荒っぽい奴と見える」
 助手はそれを聞いても、気だるそうに頷くばかりだ。
「部屋の電気が消えていたとはいえ、賊は一人で黒ずくめの服装に黒い覆面を被っていた事は分かっている。君の知り合いを刺した凶器は、傷口の具合から見てサバイバルナイフの類ではないかという事だ」
 古辺はそこで話を切ると、特売でまとめ買いしておいた缶コーヒーを助手の前に置いた。
「しかし、今回の事は僕の手抜かりもある。まさかこんな大胆な手に出るとは思わなかったし、新聞の一件に何かあるという確証も得られていない状態だったからね。部屋を取り替えて賊に備えるという偶然が無ければ、恐らく君は殺されていただろう」
 その言葉に、新垣は思わず身震いせずには居られなかった。
 まさに所長が言う通りになっていたと、彼自身思うのである。
「本当に際どい所だった。何せ犯人は、既に二人の命を奪っているんだからね」
「な、なんですって!」
 驚いた新垣は古辺の説明を遮ってしまった。
「奴は殺人犯だというのですか」
「その通り。その事も含めて、今から順番に話すとしよう。昨日の午前7時過ぎ、僕はいつも通りに事務所へ来たのだが、ふと新聞受けに何も入ってないのに気が付いた。こんな事は久しく無かったので、思わず中を開いて覗き込んだのだが、果たしてそこには血を擦った様な形跡が見受けられた訳さ。直感が働いた僕はその青い新聞受けを保管し、替わりに以前貰っていた紺色の新聞受けを掛けておく事にした。それから君が出社するまで、何度も部屋を行ったり来たりしながら考えたね。なぜ今日に限って朝刊は届かず、新聞受けの内側に血痕が残されていたのか?そこで、一度は新聞を入れたものの、もう一度取り出したと仮定してみた。血は新聞に染みていて、それに気付いたから入れたままにしておけなかったのではないかとね」
「でも、なぜ新聞に血が付いたんでしょう?それは誰の血液なんでしょう?配達した本人の物とも考えられますよね」
 次第に興奮して来た新垣が、質問を投げ掛ける。
「もし配達者の血だとしたら、手に怪我をしていたか手袋に血が付いていた事になる。一旦新聞を入れたものの、手の血が新聞に付いているのが分かり、やむなく抜いたという寸法だ。ただ、血は底の方に付いていたので、オートバイのカゴの中に血が溜まっており、それが新聞に染みたと考えた方がしっくり来ると思ったのさ」
「なるほど」
 それを聞いて、助手も所長の意見に傾いた様だ。
「第三者の血が付着しているとなると、事件性が無いとは言い切れない。また、新たな新聞が届いていないのはどういう事だ。もし配達人が何かよからぬ企みを持っていてそれがバレては困るのなら、血の付いていない朝刊を入れておくはず。うちが新聞店に催促し、事が露見する可能性大だからね。ただ、配達人が新聞の血にいつ気付いたかによって、リカバーの難易度が変わってくる。この近辺は他の区域に比べて民家はまばらだが、新聞店があるのはここから数キロ西なので、うちで気付いたとしても既に相当数を配り終えた後だろう。もしかすると、配った全てが血で汚れているかも知れないのだ。これをいちいち確認し、入れ替えるのは大変な労力だと思うが、実際どう対処したのかは新聞店で詳細を聞くしかないと思った。これに加えて新聞受けの血を盤場警部に調べて貰えば、殆どの謎が明らかになる。ところが…」
 古辺はそこで言葉を切ると、缶コーヒーで口を潤し、また続けた。
「僕がそう考えている所へ、朝刊を入れ忘れてましたと持って来たわけさ。しかし、どうも納得出来なかった。第一、血の件は依然として解決していない。どちらにしろさっき言った2点は調べておこうと決断したが、今回の事に事件性があるなら万一の危険もありうると考えて、君に注意を促したのだ。新聞店員の自転車が完全に見えなくなるのを確認すると、行動を開始する事にした。僕は出掛ける前に、念の為に新聞受けの中身を確認した。そして自分の直感が正しかったのを知ったんだ」
「どういう事です?また何か付いていたんですか?」
 新垣がせっついた。
「その逆さ。長らくキャビネットの上へ放り投げていた新聞受けは、中に薄くホコリが張っているままだった。それが、どうした事か綺麗に拭き取られていたんだ。君に新しい朝刊とタオルを手渡した真面目そうな青年が、まだ血が付いていないかと念の為に掃除して行ったと見えるね」
 古辺は笑みを浮かべながらそう言った。


  <2.助手の危機>


 その日、古辺の言う通りに行動した新垣は、少し早めに休む事にした。
 明日はいつもより早く大学の授業に出なければならないし、尾行に警戒しつつ帰宅した事が、彼をひどく疲れさせていたのである。
 しかし、いざ寝床に入ると中々寝付けなかった。
 今回の件は、別段気にする程でも無いと感じる事象なのだが、古辺は何故あんなに警戒するのか。
 普段は何事ものんびりと構える古辺を知っているだけに、一層それが気になるのだ。
 寝付けない理由はもう一つある。
 新垣はいま、就学中の住まいとして古アパートの二階に住んでいるのだが、ここには同じ大学へ通う友人が二人居た。
 彼らとテイクアウトの夕食を共にする時、今日の事をうっかり話してしまったのだが、腕に覚えのある二人は賊が侵入したら自分達が捕らえると言って聞かなかった。
 友人の一人はちょうど隣に住んでいたので、今晩は部屋を取り替えて待ち伏せするというのだ。
 申し出を断り切れなかった新垣は、いつもと違う部屋である事と、知り合いが隣で賊を待ち構えている事が気になって仕方ないという訳である。
 それから数時間が経過した、午前一時過ぎ。
 瞼が次第に重くなりようやく眠りに入ろうかという頃、アパートの階段をゆっくりと上がって来る音がした。
 彼らの部屋は二階の中ほどで、新垣の寝ている所はより階段に近い位置にある。
 このアパートには一階・二階共に学生ばかりが住んでいるので、遅くなった住人が迷惑を掛けまいと静かに階段を登っているのかも知れないが、古辺の忠告があるだけに断定はしかねた。
 外に居る人物は明らかに忍び足であり、迷惑を考慮しているにしても少しゆっくり過ぎはしないか。
 そうしているうちに相手はとうとう階段を登り切り、相変わらず慎重な足取りでこちらに近付いてくる。
 隣の友人達はこの事を感づいているのだろうか、と新垣は心配になった。
 彼らは夕食時に缶ビールを数本開けていたし、酔った勢いでの考えだけに、目的など忘れて寝ていてもおかしくない。
 すぐそこを歩いているのが賊の類なら、早急に知らせてやらねばならないが…。
 こんなときドアに鍵穴でもあれば外の光景が窺い知れるのだが、あいにく中側からはツマミを捻ってロックする仕組みになっている。
 新垣は意を決して布団から抜け出し、気取られる事の無いように注意しながら、ドアの方へと向かって行った。
 謎の人物は、ちょうど部屋の目の前を通過する所だ。
 外の気配に耳を澄ます新垣に緊張が走り、心臓の高鳴りは自分でも驚くほどである。
“ブーン”
 出し抜けに後ろから響いた音に、彼は飛び上がらんばかりに吃驚した。
 それは携帯電話が着信を知らせる振動音で、慌てた新垣は我を忘れてそれを引っ掴む。
 相手は果たして古辺であった。
『すぐにアパートを出るんだ、新垣くん!そして一番近くの交番に向かい給え!』
 だが、それは寸前の所で間に合わなかった。
 隣の部屋、つまり本来は新垣が住んでいる部屋から、ドアを蹴破るけたたましい音が聞こえたのである。
 そして次の瞬間、ギャーッと言う悲鳴が耳を襲う。
 数名の者達が格闘する激しい音と振動が、老朽化したアパート全体を揺らしているかの様だ。
 この組み合う音は1分ばかり続いたが、やがてドアが乱暴に開き、誰かが走り去って行くのが分かった。
 隣からは低い呻き声と共に、しっかりしろと言う声が聞こえている。
 仮にも犯罪研究所と名のついた所に勤める新垣だったが、一連の出来事に体が言う事を聞いてくれない状態であった。
『新垣くん!何かあったのか!』
 手にダランと持った電話からの声に、彼はようやく我に返った。
「所長、誰かが僕の部屋を襲った様です。僕は無事ですが、知り合いがやられた様です。賊は逃げたんですが…後を追いましょうか?」
『いや!危険だから追ってはいけない。僕はいま警察に居るから、盤場警部と一緒にすぐそちらに向かう。救急車も手配しておくから、そこでジッとしていたまえ』
 こうして恐怖の夜は更けて行ったのである。





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