創作から興味ある事柄まで気まぐれに綴ります
先日、久し振りにWiiのソフトをWiiUでプレイしてみようと思ったのを機会に、遅ればせながらWiiからWiiUへデータを移してみた。 専用ソフトをダウンロードし、オンライン経由でデータを移動させるのだが、移行が完了するとWii側のバーチャル・コンソールやセーブデータは無くなってしまう様だ(元へ戻す事も出来る)。 WiiUでWiiのソフトをプレイする場合、Wiiモードに切り替える必要があるのだが、アップデートによりTVだけでなくゲームパッドへも画像を表示可能になったのは有難い。 ゲームパッド単体のプレイには対応しておらず、操作自体はWiiリモコンやクラシックコントローラーでやる事になるが、TVが無くとも据え置きゲームが出来るのはやはり魅力だ。 またWiiのソフトはいわゆるSD画質なので、ハイビジョンTVでこれをプレイすると流石に粗さが目立つのだが、ゲームパッドの解像度はHDでは無いために逆に綺麗に見えるという効果もある※。
今回はGC用に発売した物をWiiへ移植した『biohazard』『biohazard 0』『biohazard 4』の3本を、ゲームパッドの画面を観ながらヌンチャクスタイル(Wiiリモコンにヌンチャクを接続した形態)で遊んでみた。 前者2本はTV・ゲームパッド共にゲーム画面が縮小表示されるので少々窮屈に感じるが、映像自体は綺麗なだけに慣れるとそれほど気にならなくなった。 ゲームパッドにはセンサーバー機能も内蔵されているので、biohazard 4の売りであるリモコンを使ったポインティングで標的を狙う事も出来たし、少し離れなければならない点を除けば次第点だろう。 こればっかりは実際に使ってみないと分からないのだが、TV無しで据え置き型ゲームをプレイしたり動画を観られる便利さは相当な物である。 ※ゲームパッドの解像度はHDに達していないものの、表示元の解像度がHDなら十分綺麗に見える(720pだとソフト側のフォントによっては読み辛い場合もあるが)。 ゲームパッドの解像度にユーザーから不満が出ないのはこの為である。 PR 先日、ニンテンドー3DS向けダウンロード専用ソフトの『ニコニコ』を落としてみたのだが、配信開始すぐにやらなかったのには訳があった。
金田一耕助が登場する映画紹介は早くも5作目となるが、今回の『悪魔が来りて笛を吹く』は、これまでと少し違う印象を残す作品である。 まず目を引くのが、金田一耕助に扮する西田敏行の人懐っこいお馴染みの演技で、先日紹介した『八つ墓村』の渥美清と同じく、俳優の個性が強く出た金田一となっている。 恐らく原作に一番近いのは古谷一行演じる金田一耕助だろうが、この作品の根底に流れる救い難い業の深さを、西田の気さくな三枚目役が和らげているのも事実だ。 冒頭の宝石店を舞台にした大量毒殺事件の件は、『八つ墓村』の村民大量虐殺と同じく実際に起こった惨劇を参考にした物だが、これによりどちらも一種の説得力と戦慄を生むのに成功している。 本作品のメイン舞台は、毒殺事件の容疑者となった椿元子爵の都内某所邸宅なのだけれど、途中で捜査網は兵庫県の神戸や須磨へ飛ぶ。 金田一が犯罪の裏に隠された事実を探る為に一旦その場を離れるのは珍しくないのだが、『悪魔が来りて笛を吹く』では依頼人である椿元子爵の娘・美禰子らが同伴だし、等々力警部が派遣していた刑事とも合流するので、物語の軸は一旦こちらへ完全移行する。 本舞台である東京の邸宅と、中盤の関西での捜査は雰囲気がガラリと変わっているので、原作も映画もこの部分の描写は深く印象に残る。 一粒で二度美味しい雰囲気が楽しめるし、事件の深層に関わる謎が少しずつ明らかになる過程は、何とも言えぬ不気味さと合間って私も個人的に大好きな部分だ。 実はここのあるシーンは原作と大きく違っているのだが、制作者側が犯人の人格を表現する上で冷酷過ぎると判断したのかも知れない。 実際、この映画は過酷な運命を背負った犯人に同情的なスタンスで描かれており、原作とは異なり犯人が◯◯◯(ネタバレ防止のため伏字)なのもその影響だろう。 最終盤、日本映画にありがちな感傷的演出が延々と続く点は少々不満だが、全体として見れば忘れ難い作品には違いないのでそこは我慢すべきか。 ただ、冒頭のシーンと終盤でブローカー2人が闇市を行くシーンは、個人的に残念だった。 『獄門島』でも触れた理由だが、◯◯が分かってしまう様なヒントを途中で見せるのは、原作のファンとしていかがな物かと思うのだ。 終盤前にある程度そういう部分を見せておかねば、観客に唐突感を抱かせる等の都合もあろうが、原作が優れているだけにどうしても勿体無く感じてしまう。 なので、『悪魔が来りて笛を吹く』に興味のある方は、まず原作を先に読む事をお勧めしたい。 逆に言えば、映画版は原作を読んでいても十分観賞に耐え得る作品であり、映像的な演出を優先した物として個別に楽しめる。 本作も他の金田一映画と同様に美しいテーマ曲が付けられているが、『悪魔が来りて笛を吹く』を映像化した中では最も印象に残る旋律であり、椿元子爵の怨念と嘆きを具象化した物に相応しいメロディーと言えよう。 今回の題材となる映画『八つ墓村』は、これまで紹介してきた金田一耕助シリーズと違い、市川崑氏ではなく野村芳太郎氏が監督した作品である。 過去の事件がその後だいぶ経ってから新たな事件に影響するという物語は後を絶たないが、『八つ墓村』は遥か昔の落ち武者狩りの祟りと、その象徴とも言うべき数十年前に起こった大量殺人事件の二段構えになっているのが特長だ。 後者は太平洋戦争中にある山村で実際に起こった事件をモデルにしており、それを知ってから原作を読んだり映画を観ると、何やら戦慄の走る思いがする。 当初は横溝正史原作の映画化作品として賛否両論の出た本作だが、確かに時代設定が戦後すぐでは無く現代(公開当時)だったり、登場人物の役割やストーリーが大胆に改変されていたりして、金田一物としてはかなり異色の内容となっている。 その際たる物が渥美清演ずる背広を着た金田一耕助で、私立探偵というより物静かなベテラン刑事といった風情なのだが、これはこれで他とは違った魅力だと私は思う。 洋服姿の金田一は他の映像作品にもあるし、クライマックスで彼が事件の真相を語って聞かせるシーンなどは、その落ち着いた口調が別のショッキングな映像と交互に映し出されて不気味な効果を上げている。 こうした静と動の極端な対比は、この映画の随所に見受けられる。 役者の演技や背景描写は出来るだけ自然に抑揚を付けない配慮がなされている一方、ここぞというシーンは強烈な誇張を加えるという大胆な演出が試みられており、そのインパクトが成功したからこそ未だに支持する人が多いのだろう。
この形式で書かれた原作自体は『三つ首塔』など結構あるのだが、ワトスン医師の一人称あってこそホームズ譚と感じるのに似て、やはり読み手に多少違和感を抱かせてしまう様だ。
まして金田一耕助は狂言回し担当だと言われる程なので、彼の関わる度合いが浅い原作だと、観客の期待する展開の映画に仕上げるのはかなり難しいのではないかと予想する。
『悪魔の手毬唄』は、市川崑監督の金田一耕助シリーズ第二作目となる作品である。
よほど犯人に強いこだわりがあるか、猟奇的思考を持つ犯人という設定にでもしないと、読者が納得する程の説得力を持たせられないのだ。 原作は横溝正史の金田一耕助譚でも代表的な部類に入るし、私も大好きな作品であるが、犯人が手毬唄通りに殺人を続ける理由付けという点ではかなり弱い。 もっとも、原作を読んでいる途中ではその事は余り気にはならず、そう言われてみれば…という感想であるが。 では映画版『悪魔の手毬唄』はどうかと言うと、何とそれについて殆ど理由を語らないのだ(笑)。
逆に金田一耕助の盟友の一人である磯川警部の部分は、映画映えする要素だけに原作より強調されており、警部を演ずる若山富三郎は枯れても折れない執念を上手く出していた。 ちなみに『獄門島』は、◯◯通り(ネタバレ防止の為に伏字)に殺人を行う事自体が重要なポイントになっているので、映画でも印象的な演出で語られている。 実は『悪魔の手毬唄』は犯行の動機についても理由付けが弱く、気持ちは分かるが殺人まで犯す事も無かろうにと思わなくもない。 しかし、前述と同じくそれを問題と見る人は、原作・映画共にごく少ないだろう。 手毬唄通りに行なわれる連続殺人、落ちると抜け出す事の叶わない人食い沼、流行歌手として大成功したグラマーガール(原作通りの引用)の帰郷等々、死んだ筈の人間が幽鬼となって徘徊する鬼首村には、妖しくも惹かれる魅力が一杯なのである。 |
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