仕事が忙しかった事もあり、またもや更新が滞ってしまった(HDバージョンを長年心待ちにしていた『ゼノブレイド ディフィニティブエディション』も発売日に購入したのだが、ほとんど進められていない有様だ)。
さて今回レビューする『砂の器』は1974年に公開された松竹映画である。
脚本の橋本忍と監督の野村芳太郎は、小説を連載中に両氏の実績を信頼する松本清張自身から映画化を依頼されたというが、紆余曲折を経て完成した映画は原作者を十二分に満足させるものに仕上がった。
製作に関する詳しい経緯やエピソードは関連書籍などを参考にして貰うとして、当ブログではネタバレを回避しつつ個人的な感想を述べさせていただきたい。
今回、記憶を取り戻す為にブルーレイ版を購入して鑑賞したのだが、以前よりも良い印象を抱く事が出来た。
というのも、私が前回『砂の器』を観たのは内田吐夢監督の『飢餓海峡』とほぼ同時であり、その時は後者の方がより強く印象に残ったからであった。
ミステリー小説の大ファンであるという野村監督だけあって、刑事2人が秋田県を訪れる冒頭から事件の全貌が判明していく所など捜査シーンは正に自分好みで素晴らしかったのだが、有名な終盤の「宿命」の曲をバックに過去の物語が映し出される肝心のクライマックスにちょっと違和感を覚えてしまったのだ。
辛酸を味わった父と子が別れを惜しむ場面や父親が入る施設を刑事が訪ねる場面、被害者が犯人を説得する短いシーン(犯人の動機を明確に示す部分は映画中ここにしかなく、それだけに印象に残る)などには感動させられたが、トータルで考えると当時の私には感傷的過ぎてどこか陳腐に映ったのだろう。
だが、改めて観てみるとやはり良く出来ているし、ウエットな演出が苦手だった自分の問題だったのかも知れない。
確かに都合よく登場人物同士が出会ったり、車窓から〇〇を散らすシーンなどご都合主義も散見する。
しかし、この種の事は映像作品としては避けられない選択で、理論的な解釈より映画としての効果や分かりやすさを優先させながら、それを致命的な問題として捉えさせない所を評価すべきであろう。
社会派的な面を含みつつエンターテイメントとして一級品に仕上げられているのは称賛すべき事で、野村芳太郎監督や橋本忍氏の非凡さと真摯さを感じさせてくれる作品である。
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